CX-3と往く巡礼の旅 その7 - 洛陽八番 大蓮寺

どうもこんにちは。

今回は岡崎公園や京都市動物園、そして平安神宮などがある観光エリア近くにある大蓮寺さんです。「近く」ではありますが、微妙に離れていますので、ブラブラ観光していて偶然にはたどり着かない感じです。

安産祈願の寺として名高く、6月~7月頃には蓮の花が境内を彩るようです。有名な八坂神社とも縁が深いお寺だったり、新しいのに色々面白いお寺さんです。

大蓮寺ってこんなお寺さん

この寺は、慶長5年(1600年)深誉が現在の京都市下京区に創建したのに始まる。伝承によると、慶長5年のある日、深誉は伏見の地で金色に輝く阿弥陀如来を見出し、誰も供養する者がないことをもったいなく思い、持ち帰って五条に仏堂を建て安置した、これが大蓮寺であるという。しかし、後になってこの阿弥陀如来は真如堂(真正極楽寺)の阿弥陀如来であることがわかり、真如堂に訴えられて返還することになった。残念に思った深誉が二十一日間の念仏を修したところ、最後の夜に旅の僧があらわれ共に念仏するが、次の朝には旅の僧の姿はなく、その代わりに本尊の阿弥陀如来が分かれて二体になっていた。一体は真如堂に返還し、もう一体はこれまで通り、大蓮寺の本尊として祀った。

その後、後光明天皇の夫人である典侍庭田秀子が難産に苦しんでいたため、大蓮寺に安産祈願の勅命が下った。祈願の甲斐あって第一皇女の孝子内親王は無事出生。後光明天皇崩御の後は有栖川職仁親王がその信仰を受け継ぐ。その縁で寺紋は有栖川宮紋となっている。

明治初年の神仏分離に伴い廃寺となった祇園社(現・八坂神社)観慶寺から薬師如来像などの仏像がこの寺に移されている。寺は当初は仏具屋通五条下る毘沙門町(京都市下京区、西洞院五条の交差点付近)にあったが、1944年(昭和19年)に空襲対策として五条通を拡幅することとなり、移転を余儀なくされて東山二条に移った。戦後、昭和40年代に現在地にあった浄土宗・常念寺と合併して寺基を移した。

18世住職芳井教岸の直弟子籏玄教(はたげんきょう)は、明治から大正にかけて「走り坊主」の通称で知られた。その奇行や貧困層に対する施しは京都名物として有名で、1918年(大正7年)の新聞紙面で「今一休」とたたえられた。

Wikipedia contributors. (2023, October 13). 大蓮寺 (京都市). In Wikipedia. Retrieved 06:36, May 4, 2024

洛陽三十三所のお寺の中では比較的新しい、1600年の創建とのこと。

こじんまりとした寺院ですが、御本尊は真如堂の阿弥陀如来とふたつに分かれたものだという謂れがあったり、八坂神社との深い関係など、知れば知るほど興味をそそられるお寺です。

安産の寺、そして洛中洛外を慈悲を施しつつ走り通した「走り坊さん」の寺として有名です。

正式名称

引接山 極楽院 大蓮寺(いんじょうざん ごくらくいん だいれんじ)

宗派

浄土宗

御本尊

阿弥陀如来(通称 安産阿弥陀如来)

洛陽三十三所の御本尊

十一面観音菩薩(本堂内に安置)

御詠歌

おおいなる はちすのはなを ささげきて にしへいざなう じひのみほとけ

詳しくは以下のサイトをご覧ください

ロケーション&CX-3的オススメ度

住所 :
(下の地図の–番です。拡大してご覧ください。左上のでインデックスが表示されます)

CX-3で訪問オススメ指数 : 70%

地域的にはクルマで行くのが不便な場所ではありません。すぐ近くのコインパーキングはひとつだけですが500メートル圏内くらいに広げればそれなりにあります。

遠方から来られる場合は、岡崎公園あたりのパーキングに駐めて、平安神宮や南禅寺などを回るのと一緒にしてしまうのも手だと思います。

公共交通機関でも地下鉄東西線の東山駅か三条京阪駅(京阪三条駅と連絡)から徒歩でも10分以内くらいなので便利は良いのですが、洛陽三十三所巡り的に言うと、ちょっと位置的には中途半端。もちろんしっかり歩くつもりならだいたい歩いて回れるのが洛陽三十三所の良いところですが、ワタシなら大蓮寺込みで複数の札所を回るならクルマにします。

訪問記

東山通りから仁王門通りをちょっと西に入って北に上がったところにあります。仁王門通りというイカツい名前ながら普段京都市内を走り回っているワタシでも、あまり通らない。そんな細い通りです。

あとで地図を眺めていて気がつきましたが、このあたりは小規模から中規模の寺院が密集している地域で20くらいはあるんじゃないでしょうか? ただし、観光地的にはそれほど有名なお寺さんは見当たりませんが。

そんな中にあるので、通り沿いにもいくつもお寺さんが並んでいますが、ひときわ目立つ真っ赤なのぼりで迎えてくれるのが大蓮寺さんです。

足を踏み入れるとズラッと並ぶ大きな瓶(かめ)が迎えてくれます。時季外れで殺風景ではありますが、蓮を植え付ける鉢のようで、季節(6月下旬から7月下旬頃)になると色とりどりに蓮の花が咲き誇るようです。この記事を書いているゴールデンウィークあたりには植え付けを終えられとらしいです。

こんな蓮の鉢が並ぶ奥には本堂があります。大きくはありませんが立派なお堂です。ふたつ並ぶ提灯には御本尊の阿弥陀如来と洛陽三十三所本尊である観音菩薩の名前が記されていますので、巡礼もこの本堂で間違いなさそうです。

お庭にはなぜか布袋さんも草花に囲まれて、にこやかにくつろいでいらっしゃいます。

洛陽御本尊の観音様は、かつて祇園社と言われていた八坂神社が、明治の神仏分離によって仏教色を廃する中で移されたものだそうです。お寺自体も戦中の強制疎開でこの東山二条に移され、さらに昭和40年この地にあった常念寺というお寺と合併して寺基を移したとあり、昭和以降に移転されて今に至るわけですが、雰囲気的にはもっと昔からあるような、そんな古き良き雰囲気を感じさせてくださいます。

御朱印

他に参拝客はいない中でしたが、奥から出てきてくださって御朱印を書いていただけました。

洛陽三十三所第八番札所 廬山寺 御朱印

ありがとうございます。

さいごに

1600年の創建と聞くと「新しい」と感じてしまうのが京都人の悪いところですw

それはさておき、戦中の強制疎開を経て……というのはワタシが伺ったお寺の中では聞いたことがありません。ところが調べてみると戦中、空襲による延焼を防ぐため、京都市内でも大規模な強制疎開が行われていたらしいですね。

その中でも御池通、五条通、堀川通あたりが大規模な拡幅され、1万戸以上の民家が疎開させられたとのことです。大蓮寺は元々「西洞院五条」あたりにあったとのことですが、もろですね。

京都の人なら恐らくピンとくるでしょうけど、市内中心あたりの「御池」「五条」「堀川」って不自然なくらい道幅がだだっ広いんですよね。まさか戦争が理由でこうなったんだとは知りませんでした。(ワタシは大阪育ちなので知らなかっただけで、生粋の京都人からすると常識なのかな?)現在の景観や交通を考えると悪いことばかりではないようにも思えますが、京の都の中心に居を構えていた多くの人たちが強制的に疎開させられたということに思いを馳せれば、やはりヒドイ話です。

しかし、そのような逆境を経ても人はたくましく在り続けるものですね。場所を変え、その地にしっかり馴染んで営まれている大蓮寺さんを見て、そんなことを思いました。

それではまた。

Leave a comment

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

*