Index
ガレンテ民族の歴史は5つの時代に分かれており、それぞれが他の文献で使われている標準的な歴史年代の少なくとも1つと重なっている。古代人の時代は、歴史的記録が乏しく、社会的にも技術的にも集中的に発展しなかったことが特徴的であり、せいぜい鉄器時代止まりである。The Age of Rouvenor(Rouvenor時代)は、Garoun帝国の王にちなんで名付けられた。Garoun帝国とは、航海時代に最盛期を迎え、ついには惑星の未来に比類なき影響力を持つことになった多国籍帝国である。工業化時代は明確に区別できるものの、グローバル化時代はガレンテ民族における情報化時代の中で始まった。そして現在の「連邦時代」は、Luminaireの宇宙時代の中で始まり、現在に至っている。
ガレンテ民族の歴史は、単一の支配的な民族や国家が、直接的または間接的な手段ですべてのライバルを同化させるという特徴を持たないという意味でユニークである。その代わりに、世界はグローバリゼーションと呼ばれる比較的平和的なプロセスを経て、(それぞれが1つ以上の民族国家によって代表される)個々の民族が外交的かつ非暴力的な条件で相互に取引を行うようになった。このプロセスは早くも航海時代に始まったが、国家と国家ではなく個人と個人を結びつける惑星のアイデンティティが育まれたのは、情報化時代に世界的な通信ネットワークが構築されてからであった。「ガレンテ」という言葉が生まれたのは、カルダリと初めて遭遇した後であり、そうでなければどちらの人種も自分たちを単なる人間として認識していただろう。
Rouvenor時代に記録され始めてから、ガレンテ民族の歴史は1500年以上に及ぶ。
概要
ガレンテ民族は、Luminaire星系第6惑星に由来する。この惑星のことは彼らの祖先は多くの異なる名前で呼んでいたが、今日では正式にガレンテ・プライムと名付けられた。(ガレンテ民族の多くはこの惑星をがレンティアと呼んでいるが) 現代の考古学者のほとんどは、ガレンティアの最初の入植者はタウ・セチ(訳注 : Tau Ceti くじら座タウ星)として知られる星系からやってきたと考えている。
これらの移住者は、健全な生物多様性と一般的に快適な気候を持つ、自然のままで居住可能な惑星を発見した。そのあまりに好ましい条件のおかげで、テラフォーミングや気候制御に労力を払う必要もなかった。皮肉なことに、文明の回復と繁栄に役立ったこの環境が、崩壊前の入植者たちが考古学的証拠をほとんど残さなかった重要な要因になったのではないかと考える人もいる。
ガレンテ民族の歴史には、異なる2つの年表がある。宇宙飛行や連邦が台頭する以前は、彼らの歴史や文化はガレンティアの歴史と同じものだった。しかし過去500年の間に、ガレンテ民族が何百もの異なる世界に移住し、無数の異なる民族と混ざり合ったことで、彼らの物語は連邦の歴史の一部となった。文化的同質性の欠如により、このような極端な乖離が起こり、何百万人ものガレンテ民族が(不本意ながらも)故郷の世界から遠ざかり、市民権によってのみガレンテ人とみなされるようになっている。
古代
ガレンティアにいつ文明が復活したのかは、はっきりとしていない。考古学者がこの惑星の古代集落の遺跡を発見し、復元しているが、崩壊前の社会を示唆する遺跡はごくわずかである。
Garoun帝国が台頭する前の時代は「古代」と呼ばれており、いくつかの民族や文明が互いに完全に孤立していたり、果てのない争いを続けていたり、その中間の状態で暮らしていた。ある国はLuminaireの太陽を崇拝する砂漠の帝国であり、ある国はガレンテ・プライムの湿地帯や森林に住む部族集団であり、周囲の環境と精神的な調和を形成していた。
また、草原や平原で領土争いをする君主制や共和制の国家もあったが、この惑星は海洋性であるため、外界との接触がないまま何百ものコミュニティが発展することができた。また、この時代の科学技術は全体的に不均衡な発展パターンをたどっており、それぞれの発展度合いもまちまちであった。
崩壊前の遺跡から得た技術と鉄器時代の道具や機械を組み合わせて、不釣り合いなほど強力な地域覇権を握った帝国もあった。劣勢に立たされた多くの国々は、これらの技術を持った帝国を打ち破るために連合を組み、戦利品を分け合うことにした。そして、これらの勝者は何世代も後に崩壊したり、征服されたりして、新しい国家が生まれては滅びるという終わりのないサイクルを繰り返していた。
ガレンテ・プライムの社会情勢は一進一退を繰り返しており、国家や帝国の勃興と衰退のサイクルは、この惑星に文明が再興された後も何世紀にもわたって続いていたのである。最終的に、政治的・技術的にまとまった発展を遂げたのはGaroun大陸であり、その温和で快適な気候のおかげで、特定の国家がガレンテののちの世代の歴史にまで影響するほどの安定性をもたらすことが可能となった。
Rouvenor時代
Rouvenorの台頭
Garoun大陸の中央を横切るように流れるのがStomeve川、その中心部に位置するのがCylle(後のCaille・ケイル)という集落である。漁村に過ぎなかったCailleは、戦略的にこの地域を支配しようとする様々な帝国の手に渡り、大きな町へと発展していった。しかし西暦21656年にDoule dos Rouvenorが、Cylleを統治していた領主を追放し、独立した王国を築いた。Garoun大陸、特に中央部は、惑星上で最も肥沃な地域であり、比較的少ない労力で豊富な食料を得ることができる。このことは短期間でGarounの人口が急増する要因となった。
Garoun統一戦争
人口が急増したRouvenor王国は、当時のGaroun大陸の他の国々にとって脅威となり、若き王とその民衆に対して素早く団結して対抗した。Rouvenorが大陸全土を征服すべく兵を率い、多方面で戦闘が激化した。王はその天才的な戦術で侵略者を撃退し、また、そのカリスマ性で地元の人々を味方につけていった。これらの出来事は、古文書である「dos Rouvenorの戦記」に記されている。
やがて、Garoun全土が一つの旗の下に統合されてGaroun帝国が誕生し、文化的にも技術的にも大きな進歩を遂げた時代となった。代表的なものとしては、印刷機が発明されたことにより、文学作品が広く消費されるようになったり、演劇などの高度な文化にエリート層以外の多くの人々が触れることができるようになったことなどが挙げられる。Garounでは農業が容易であったため、多くの人々が自由な時間を持てるようになり、このような変化が起きたのである。
技術の進歩に伴い、Garoun帝国は他国に探検家を派遣するようになった。船長と乗組員は、船に王家の紋章を掲げ、王家の祝福を受けていることを除くと、ほとんど独立した存在だった。歴史的に実証されているわけではないが、あるカラベルは「Long-Limb of Lyace(Lyaceの長肢)」と呼ばれる海の怪物が生息するLyace諸島を発見したと噂されていた。年老いたRouvenor王が、怪物を退治するために首都CailleからLyaceに向かったと、伝説や叙事詩などの文献には記録されている。
Morthaneとの戦争
Rouvenor1世の治世の後半、Garoun人はMorthaneと呼ばれる敵対的な帝国でと遭遇した。当初、互いの文化や政治についての知識は曖昧だったが、貿易が盛んになるにつれ、宗教観をめぐって緊張が高まった。両帝国とも月や星、特に星座にまつわる神々を信仰していた。しかし、同じ星座でも、Morthaneの解釈はGarounのそれとは正反対だった。Rouvenor王はそれを不和の原因になるものとは捉えていなかったが、帝国内ではMorthaneに対する反発の声が高まっていた。Rouvenor王は、国内の緊張感を極力抑えようとしていたが、Morthaneが奴隷制を行っていることが国中に知れ渡ってしまったことで選択の余地はほとんどなくなってしまった。
Garoun帝国は奴隷解放の目的の下、Morthaneの7つの軍隊との戦争を敵地の砂漠で繰り広げていた。Rouvenor1世は崩御し、王座は彼の息子に引き継がれた。戦争は膠着状態のまま終わり、現状維持となった。しかし、相対的に交易が減少し、接触することが少なくなったにもかかわらず、緊張状態は続いていたようだ。芸術家や詩人たちは、Morthane政府を民衆の抑圧者として悪者扱いし、専制的な体制に立ち向かう民衆の姿をロマンティックに描いた。そのような表現が正しいものかを確かめる術がほとんどなかったことから、このようなMorthaneのイメージはGaroun帝国内で広く定着していた。
Morthaneのことで煩わせられなくなると、Garoun人は世界を探検し、地図を広げ、新しい土地に植民地や交易所を建設し、時には原住民に歓迎され、時には敵意をもって迎えられた。帝国は、海外に貿易ルートを確立してもなお、大陸の勢力を維持し、海軍による保護義務を民間船に委ねたままであった。
ファースト・ルネッサンス
この時期、Garounの進歩的な考え方が物資とともに輸出されるようになり、他の国や民族に奴隷制を廃止し、Rouvenorの人道政策を取り入れるよう奨励した。このため、敵国のMorthaneとの緊張は高まったが、二度目の発火点には達しなかった。海が交易船で賑わうようになると、独立した海洋都市国家であるHueromontが設立され、また貿易と外交の基礎を築く上で、ガレンテの考え方、傾向に意義のある影響を与えた。
Doule dos Rouvenor3世は西暦21714年に父の王位を継承し、彼の即位に基づいて新しい暦「Age of Rouvenor(AR・Rouvenor時代)」をスタートさせた。ARの1年はYoiul以前(訳注 : 現在のYC暦がYoiulにおける合意で定められる前という意味かと思われる)の1.21年にあたり、ガレンテ・プライムの多くの場所で今も使われている。彼の36年間の治世は、先代たちの時とは異なり平和的であり、それは彼の統治手法が手際の良いものだったことを意味する。
異民族の平和的な交流による多文化主義という進歩的な枠組みが、初めてガレンテの思想に浸透し始めたのはその頃だった。個人主義的な哲学が根付き始め、人間の精神、自由意志、自分の運命を切り開くという考えが倫理的な政策を後押しした。社会福祉や人道的援助といった思想は、国の後援で設立される寺院が、病人や社会的弱者のための無償の病院として機能するように計らわれた布告にその前身を伺うことができる。
そのような状況の中で、一人一人が独立した国家であり、他の個人が他の個人の問題に干渉する権利はないという考え方が一般的ものとなってきた。歴史家たちが後に、Garoun帝国のこれまでの外交政策を持ち出して皮肉めいたことを言うことになるが、一人の個人(君主)が無数の人々を支配するという考え方は、敵意をもって迎えられるようになった。そこでRouvenor3世は、記録に残る最古の憲法の一つを制定する際に「法の支配」の原理を導入し、君主は確立された法の枠組みの中でのみ、国民を統治することができることとした。
崩壊
やがてGaroun帝国は、自らの理想の犠牲となった。王位はSeitaredes家に渡ったが、Seitaredes家にはRouvenor家のような経験も名声もなかった。属国の人々の間では自己決定の概念が広まり、帝国からの離脱を求める声が多く聞かれるようになった。
独立を宣言した最初の2つの国は、Morthaneと同盟を結び、Morthaneは大陸の新たな同盟国からGarounへの侵攻を開始した。Morthaneとの2度目の戦争は、Rouvenorの最初の統一戦争よりもはるかに血なまぐさいものだった。しかし、Garoun帝国の決意がMorthaneを大陸から駆逐するという結果を生み出し、勝利をもたらした。
しかし、帝国はGarounの支配を長続きさせることができなかった。多くの国が分離独立し始めたが、そのために血が流されるケースはほとんどなかった。Rouvenor王朝が維持してきた何世紀にもわたる平和は、いかなる分離独立に対しても暴力的に鎮圧することに二の足を踏ませたのだ。さらに、Seitaredes家はCailleと本国の支配を維持し、新たな戦争がもたらすだろういかなる暴力や流血からも免れたいと望んでいたし、新たな新興国家の同盟に対抗できる見込みがないことを充分承知していた。
148 AR(21837 AD)年、Garoun帝国は崩壊した。しかし大陸と世界中にその遺産が残っていた。衰退した帝国の重荷から解放されたことで、世界の技術はさらに急速に進歩した。(訳注 : AD21837年はAR制定から123年経過していますが、ARが1.21倍換算なのでAR148年となっているようです)
工業化時代
初期の発展
Cailleの街で初めて蒸気が導入され、工業化時代の夜明けが訪れた。何世代も前に確立された貿易ルートのおかげで、技術の交換は迅速に行われ、豊富な化石燃料のおかげで、世界中の国々は急速に工業化していった。しかし多くの工業化の例に漏れず、当初は人間の政治的なものの見方が技術に追いついていなかったため、壊滅的と言えるほどの不安定さがもたらされた。工業化された戦争という概念は、過去に類を見ない緊張をもたらしたが、当初はもっと平和的な発展を見せていた。
船は今や鉄と鋼で作られるようになり、石炭を燃料として使うことも可能になった。このことで、船舶がホームワールドの広大な海洋を横断することも容易なものとなった。ただ、海流に関する知識はGaroun帝国の後継国にしっかりと受け継がれていて、世界貿易においてはGaroun帝国が優位に立っていた。軌道上にある月の数が多いため、海流は本質的に複雑で危険なものであったからだ。
鉄道や自動車輸送の発達により、陸上での物流は楽になったが、海運の二次的なものだった。さらに、工場では商売道具が何百という単位で生産されるようになり、かつてないほどの人口爆発の要因となった。
移住
この時期に鉱業と大規模プロジェクトの文化が出現し始め、巨大な産業集積地とハイブ(現代の何層にもわたるクリスタル・メガロポリスに似ていないこともない)の建設も一様に大規模な鉱山採掘によって支えられていた。海洋都市国家は重要性を増し、都市で発生した人口過密から逃れようとする移民によって、多くの大陸において農村が大きな町へと発展し始めたのである。
都市部から逃れてきた移民たちは、ほとんどが富裕層であった。彼らが故郷の都市を離れたことで、無数の管理職が空席となった。それを埋めたのは、それまで社会の上層への進出が望めなかった労働者階級の人々であった。しかし、このような労働者階級は裕福になったとしても、本人や家族は元の階級の文化や社会的スタイルを維持している場合が多い。これにより、多くの大都市では階級間の壁や社会的な分離が解消され、ガレンテ・プライムの未来にも引き継がれていくことになった。
また、社会的・文化的背景に依らず、純粋に能力と実力に基づいて誰もが何者にでもなれるという、社会的流動性の基礎をガレンテ文化に根付かせたという効果もあった。さらに、富裕層が都市部から移住したことで、ガレンテ・プライムの富と人口の分布が均等になり、主要な居住地の都市密度が他の惑星に比べて低くなるという歴史的な前例ができた。しかし、いずれの場合もこれらの概念が定着し、最終的に成長を遂げるまでには数十年の時間を要した。
飛行船革命
Garoun諸国が海上貿易を独占していたため、他の国々は国際競争力を高める方法を模索していた。海洋船舶と同等の貨物を運ぼうとする水素やヘリウムによる飛行船は、雲の中や下を移動しなければならず、嵐や悪天候の影響を受けやすくなる。それでもなお貿易の覇権争いは行われていたが、海流を知り尽くしたGaroun諸国が圧倒的な強さを誇っていた。
この分野で大きな技術開発が行われたのは、Morthaneの後継国がある地域であった。嵐や悪天候に強い金属被覆飛行船を作るために使われるオスミウムの大鉱床が発見された。Garounに海流に関する知識があったとしても、最新の推進技術と組み合わせれば、この飛行船は惑星上をより早く横断することができた。また、雲の層よりはるかに上を航行できるため、海洋船舶が遭遇しやすい悪天候の影響を受けることもない。オスミウムが最も豊富に含まれているのはMorthaneであり、その他の地域における含有量はまちまちである。
Garoun諸国を含めた大規模なオスミウム鉱床を持たない国々は、他の国々に負けてしまうと考えていた。強力な陸軍や海軍を持つ国は、資源を求めて弱小国を侵略した。Morthaneの後継諸国は、より大きな帝国に領土を奪われるのを防ぐことができなかった。金属で覆われた空中戦艦(高速で移動するスループ(訳注 : 本来は1本マストの縦帆装船のこと。要は小型船というイメージでしょう)からプロペラで浮かせた巨大な金属の要塞まで)が建造され、標準的な敵飛行船や水上戦艦を容易に壊滅してしまった。多くの国がまだ帝国主義的な考え方を持っており、先進国の支配者は、今やより多くの流血を伴いつつ、自らの目的を追求することができるようになったのだ。
スカイウォーズ
金属で覆われた軍用飛行船が発明されると、文化的な不一致や過去の恨みの再燃など(少なくとも表向きは)資源とは異なる口実で戦争が開始されるようになった。オスミウムの供給を握っていた商社や鉱山会社は、これらの紛争で莫大な利益を得て、支配階級に浸透し、政府が敵意をどこに向けるのかにも影響を与えた。大陸や島々の間には広大な距離があるため、これらの戦争は主に空の上で行われた。
一方、沿岸部の集落を守るために海軍艦船を配備した国は、無差別に標的にされ、破壊された。飛行船を持たない国(または金属製の船がない下級の船団しか持たない国)は、町や都市を破壊された。ライフル銃、大砲、戦車など、その他の産業時代の産物は、これらの紛争の激しさをさらに増すだけであった。
平和と協調というRouvenorの理想を脇に追いやった、工業化された紛争が行われ、致命的なまでに不安定なこの時代は、多くの歴史家にとって、ガレンティアの人間が「成長痛」を伴いつつ壮大な技術革新に適応してゆく様を表す象徴だと言われている。新しい戦争兵器のおかげで人命が大幅に失われたことは、継続的な暴力も永遠に続くわけではないことを意味していた。世界中に広がった疲労感が、数十年に間に何百万人もの死者を出した紛争を終結に向かわせ、このような戦争が二度と起こらない未来を望ませるようになった。ジェットエンジンの発明は、戦争のためではなく、平和的に利用される飛行船やその他の航空機など、新たな時代の到来を告げるものとなった。
悠久の平和へ
核分裂と原子力技術が生まれたのは、ガレンテが戦争に飽きてしまったた後のことであり、核兵器の応酬によって自滅した他の世界の無数の文明と同じような災禍に見舞われたわけではなかった。貿易を基盤とした国際組織が設立された。工業技術のおかげで、貨物船、列車、航空機はこれらの貿易圏拡大を支え、国家間の経済的境界を曖昧なものにした。ガレンテ人は全面戦争の残酷さにうんざりしており、過去の王国や旧共和国が唱えていた貿易や外交の概念に回帰していった。
また、工業化時代の後期には世俗化が進み、王朝型の君主制から民主的な共和制が徐々に主流となった。政府の政策からは宗教的なものが徐々に排除されていったが、いくつかの文化では、自然環境についての責任を果たすべきだという精神的な潮流が根底にあった。戦争や重工業で破壊された地域を復興させる努力がなされ、生態系保全の技術も開発された。永久に失われたと思われていた地域も取り戻された。いつまでも続く未来に向けて、ガレンティアの環境破壊の可能性は根絶されたのである。
グローバル化時代
情報化時代
ガレンテプライムの情報化時代は、テレコミュニケーション(遠隔通信)の爆発的な増加によって特徴付けられる。工業化時代には物質的な物の交換が迅速に行われるようになったが、世界規模の意思疎通が容易になったことで、アイデアや倫理観のやりとりも促進された。より速く、より安全なジェット機の旅と相まって、ガレンティアはかつてないほど小さくなった。
経済的なものであれ、文化的なものであれ、貿易はもはや裕福な大物や政治家など、社会の上層部に限られたものではなくなった。ある国の文化に属する個人は、世界の反対側にいる別の文化を持つ国の人と意見を交換し、コミュニケーションをとることができるようになった。異国の人々の交流は、対立や緊張をもたらすものではなく、協力や異文化コミュニケーションを促すものであった。これは、政府がコンピューターを使ったコミュニケーションをコントロールしておらず、政治的に使われたり国家の管理下に置かれなかったため、ユーザーは純粋に個人ベースで交流することができたのである。
情報化時代の直前に設立された貿易組織は、経済的な相互依存関係と主流になってきたポストナショナリズムの理想が相まって、国境の境界線を曖昧なものにし始め、超国家的な組織へと進化し始めた。しかし、ガレンテの社会や文化に起きている根本的な変化を、政府はまだ理解していなかった。彼らは世界の経済と社会を支配する上で優位に立つために、世界政治を再び分極化しようとしたのである。
3ブロック時代
最初の連合はGaroun大陸から現れた。古代Rouvenorの民主主義と人道主義的理想を掲げるものだった。その支持勢力は、政治的・思想的に世界中に影響を及ぼしていた。Morthane諸国は、名前だけが違う実質的な第二のGaroun帝国が形成されているとしか思えず、すぐに独自の超国家的組織の存在を背景にして団結した。彼らは、独立と不干渉の価値観を持ち、Garounのソフトパワー路線に対抗して強硬路線をとる準備もできていた。彼らの勢力の基盤は多くの人口と産業基盤から成り立っていた。
最後に、都市国家Hueromontは、ガレンティアの周辺諸国をカバーし、中立性と外交を重視する三つ目のブロックの中核都市として、他の2ブロックと同様の影響力を持つに至った。その勢力基盤は国境にとらわれない経済活動を行う企業間の結束から来ている。表向きには異なる理想を掲げているものの、この三勢力は本質的には自分たちの勢力を拡大し、課題を進展させることにこだわっているという点で、同じだった。どのブロックにも属さない国もたくさんあり、その代償として彼らに抑圧される状態となっていた。
世界地図を政治的に再分極化しようとする試みにもかかわらず、国と国ではなく、個人と個人をつなぐグローバルな社会は、長きにわたり確立されており、技術の向上とともにさらに強固なものになっていた。3つのブロックがデジタル通信網をコントロールしようとしたが、何千万人ものユーザーによる大規模な反対運動の前に失敗した。
通信によるコミュニケーションには確かに物事を均等化する効果があるが、3つの勢力ブロックの巨大さゆえの扱いにくい性質から、ブロック内での対立が見られるようになり、かえって世界的なイデオロギーと調和した地域的なアイデンティティーが高まることとなった。個人が世界中の抑圧された人々の苦境を知ることが容易になり、またこのような人々はテクノロジーを用いて自分たちの主張(場合によっては反対運動)をより上手くまとめることができるようになった。
たとえグローバルなイデオロギーがGaroun大陸に由来するものであったとしても、そのつながりは世界の人々ではなく、互いにライバル関係にある政治家によって作られたものにすぎない。独裁制や神権制などの時代遅れの体制を敷くいくつかの政権は、世界的な動きに後押しされて起こった自国内での反乱を鎮圧するための手段を講じた。
民主化
これを受けて、主要なブロックは、民衆の動員によって、非民主的な政権やならず者国家に対する独立運動を支援するための介入キャンペーンを共同で行うことを余儀なくされた。代理を立てて戦うケースもいくつかあったが、ライバル関係の継続は時代遅れで未熟なものとみなされるようになった。多国籍企業はこのような一触即発の状況を食い物にすることもあったし、そのうちにはこのような状況を操作するようにさえなった。
誘導ミサイルなどの精密兵器の開発により、これらの紛争は巻き添えによる被害を最小限に抑えつつ行うことが可能となった。さらに、そのような戦争は数カ月や数年かかるものではなく、ほとんど消耗のない、すぐに終わりがちな一方的な紛争となり、数日間で終わるようになった。人民の勢いに押されて、主要ブロックは時代錯誤的な政府や政権を排除し、民主主義と自由主義が、ガレンティア全体における支配的な政治的・哲学的イデオロギーとして確立した。
独立運動により、世界地図上の国の数は大幅に増え、大きな国は様々な小さな領土に分割されていった。最終的に、3つの超国家的組織は、一連の金融危機と民衆の圧力により無血のうちに崩壊した。代わりにガレンティアの国々は、国際的な外交・平和維持の場としてWorld Democracy League(世界民主主義連盟)を結成した。(このWDLは現在のガレンテ・プライムにおける連邦承認の惑星政府として今に残っている)世界経済の主導権を握ったのは、以前から多国籍企業のシステムに組み込まれていた企業であった。
宇宙時代
906AR(西暦22463年)、ガレンテのグローバリゼーション時代の後期に、Lyace共和国の天文学者Vivien Toloutiが、彼らの星系における第7惑星(当時はCephalinと呼ばれていた)にカルダリ人を発見した。これはガレンテの工業化時代が始まったおかげである。ガレンテが宇宙で孤独ではないという事実は、人々にかつてないほどの衝撃を与え、ガレンティアの民族間の違いは脇に置いて(少なくとも外見上は)「異星人」に団結して立ち向かうことが最善であると急速に考えられるようになっていったのである。
ガレンテ・プライムは国家、文化、宗教によってわけ隔てられたままであったものの、自由と個人の尊厳というイデオロギーは、この時点ですべてではないにしても、ほとんどの国や民族で共有されていたのである。まもなく国際的なレベルで、ガレンテの未来のために宇宙に焦点を合わせることが決定され、ホームワールドは文明がここから広まる発祥地に過ぎないと宣言された。世界民主主義連盟から独立した多国籍の宇宙機関であるInternational Space Cooperative(国際宇宙協力機構・ISC)が設立され、惑星間を横断する技術が今後の科学開発の主眼となった。
最初の有人探査機がカルダリ・プライムに到着したのはAR971年(西暦22517年)のことで、カルダリ諸国を困惑させたいくつかの探査ミッションを経てのことだった。ガレンテとカルダリのファーストコンタクトは、双方の種族が初めて自分たちのことを現在の名称で呼んだ瞬間であり、ガレンテというのははISCの艦長が自分のホームワールドの人々を表現するために選んだ言葉だった。
2つの世界の間には通信回線が確立され、新種族の発見に双方(特にガレンテ・プライム)で歓喜の声が上がった。ガレンテ・プライムからは、カルダリが産業時代から宇宙時代に移行するための船が数隻派遣された。ガレンテ・プライムから派遣されたISCは、以前からの加盟国が機関の主要な出資者であることから機関の運営に大きな影響力を持ち続けているものの、いくつかのカルダリの国をその組織に迎え入れた。
連邦時代
連邦が設立されるのはさらに500年後のことだが、AR1057年(西暦22588年)にガレンテとカルダリの星系から出発する最初のスターゲートが建設された時が、民主的な同盟の始まりとなったことは歴史家の一致した見解である。多国籍宇宙機関の権威の下で急速に拡大していた時期の利益は、ほとんどガレンテのものとなった。国際宇宙協力機構は、人口の多い国が意思決定に大きな影響力を持つ仕組みになっていたからである。ガレンテ・プライムにおいて設立された当初は公平なシステムと考えられていたが、それは人口が少ないカルダリ・プライムが常に不利な立場に置かれることを意味していた。
文化の拡大
ガレンテがカルダリに優越するということは、カルダリの近代社会は事実上、ガレンテによって作られたものだということを意味した。カルダリの国家は、成文化された法的権利と固定化された官僚機構、そして自由市場と資本主義的生産様式を持ち、文民政権が市民を統治するように形作られた。両惑星の国々は、文化的・社会的には基本的に正反対であったが(ガレンテは自由主義的、カルダリは権威主義的)構造的には同じスタイルをとっていた。これは「ルミネール・モデル」と呼ばれ、ガレンテ文明で最も盛んに輸出されたもののひとつとなり、現代の星間社会の構造に影響を与えるまでになったのである。
AR1109年(西暦22631年)に、注目すべきガレンテの文化振興の計画が実行された。Cultural Deliverance Society(文化解放協会・CDS)が、ガレンテの慈善家やビジネス界の大物、その他色々な国籍からなる多くの人たちによって設立された。これは、突然の技術的飛躍に惑星の政治が迅速に対応できなかった結果、カルダリのホームワールドで勃発した不安定な状態と低レベルの武力紛争に対応するためであった。CDSは非政治的であることを明示しており、ガレンテ・プライムの特定の国を代表するものではなかったが、数十年後、CDSが当時のカルダリ・プライムのいくつかの大国から資金提供を受けていたことが判明した。
その年にカルダリ・プライムに到着したCDSは、カルダリのほとんどの国で、慈善事業、学校、人道的プロジェクトなど、さまざまな活動を立ち上げた。
また、CDSはカルダリに企業資本主義をより広範に導入し、AR1173年(西暦22684年)にはIsuuayaとして知られるカルダリ初の巨大企業が設立された。文化解放協会と国際宇宙協力機構は、現代のカルダリ社会にガレンテ的な概念をもって長年にわたって影響を与えてきたが、カルダリ文化はそれによって完全に歪められてしまうのではなく、自分たちの利益になるアイデアを選別して取り入れる事ができるほどの弾力性があった。その一例がメガコーポレーションであり、カルダリの実用的な権威主義と彼らの共同主義的なやり方を見事に融合させた。
星図が広がる中、ガレンテ・プライムに黄金時代が到来した。初めてのグリーン・アーコロジーシティやクリスタル・メガロポリスが出現した。それぞれCorufeu、Astrinとして知られるLuminaire星系の第2、第3惑星にはテラフォーミング・コロニーが建設された。その一方、ガレンティアでは短期間での人口の過剰な増加による混乱が発生したため、いくつかの国がカルダリ・プライムでの海底都市建設の協定を結んだ。多くのガレンテ民族がシバー人やデティス人と混ざり合い、ガレンテ族が真の星間民族となる傾向が始まったのである。
さらなる出会い
AR1306年(西暦22794年)とAR1324年(西暦22809年)、ガレンテ船がインタキとマナーの両母星に遭遇した。どちらも遭遇したときは工業化以前の非常に原始的なレベルであったが、一挙に近代化された。ガレンテ民族は、この2つの新種族との交流にとても熱心だった。インタキ人はガレンテの影響を最小限に抑えながら有機的に民主主義を発展させたので、2つの文化は自然と親和的なものとなった。(ただし、インタキはガレンテよりもはるかに抑制的で慎重な姿勢で臨んでいたが)
一方、マナー人の派手で表現力豊かな、そしていささか異質な文化は、ガレンテの芸術性とうまく融合し、最終的に境界線が曖昧になってしまう以前から両者が組み合わされた数多くの分派を生み出した。しかし、マナー人は頑固で外国人嫌いの傾向があるため、ガレンテとカルダリの文化がミックスされていると感じる人も多く、摩擦が生じていた。ガレンテの当時の文化向上の方法が未熟で不器用だったため、マナー人はルミネール・モデルを取り入れるにあたり、大きな成長の痛みと武力衝突を経験することになる。
ガレンティアとカルダリの民族間では、今やインタキ人やマナー人、その他の少数民族も含めてさらなる混在が進んだ。これに対する反応は概ね好意的であったが、唯一明確に否定的な意見を持っていたのは、中心部から外れたところにある少数の保守的なガレンテ国家であり、彼らのほとんどは異世界の人種を根本的に嫌っていた。
ガレンテ・プライムで確立された国際法では、民族に基づくあらゆる形態の人種差別や制度的な差別が禁止されており、今でも間接的な迫害はあるものの、そのような信念はほとんどの場合、時代遅れだと考えられていた。ガレンティアでは、少なくともいくらかのカルダリの血を引く初の国家元首がこの時期に就任した。また、多くのインタキ人やマナー人がルミネールVIに移住し始め、多くのガレンテが惑星外のコロニーに移住し始めたことで生まれた、様々な求人の需要を補っていた。
建国
ガレンテプライム連邦は、AR1702年(西暦23121年)に、4つの主要な本国とその周辺の植民地に存在していたすべての民族国家を統括する民主的な超国家的機関として共同で設立された。この時点で、ガレンテ民族はその民族間だけでなく、異世界の民族との混血も進んでいた。これは、既知の宇宙で最初のコスモポリタンな惑星であるガレンテ母星を新連邦の中心とすることを正当化する根拠であると考えられた。皮肉屋たちは、まずガレンテの人口的優位性が、等しく政治的優位性をもたらし、それが連邦のその後の歴史における政治的文化と習慣を形成したにすぎないと指摘するだろう。
AR1743年(西暦23155年)にガレンテ・カルダリ戦争が勃発したとき、ガレンテ民族は惑星規模の権威主義を初めて経験した。ガレンテ・プライムのいくつかの国は、超国家主義者(訳注 : 極右勢力的な意味)のやり方に激しく反発して連邦からの離脱を試みたが、主要な惑星勢力と連邦自身によってすぐに服従させられた。戦争初期に起きたHueromont事件をきっかけにファシスト政権の転覆を引き起こしたが、本国において以前の状態を取り戻すのにはしばらく時間がかかった。
セカンド・ルネッサンス
カルダリの分離独立の結果、Luminaireで起こった残虐な事件は、ガレンテ民族の間に星間政府への不信感を生み、それは今でもまったく拭い去られていない。大量のガレンテ民族が首都星系から別の場所に移住し始め、新たな連邦加盟国としての政治的に自立したシステムを形成したり、後にSolitudeとなるような完全に独立した宇宙空間に移住していったりした。連邦は戦争初期に大幅な改革を行い、はるかに強権的でない組織になったが、連邦政府が干渉的な存在であるという認識は、首都がLuminaireからVilloreに移った後も、いつまでも続くことだろう。
AR1773(西暦23180年)のアマー帝国との遭遇は、連邦の他民族と同様にガレンテ民族に顕著な影響を与えた。当初、ガレンテ民族はアマー帝国を奇妙な存在と感じており、彼らの帝国は自分たちのホームワールドにあった工業化以前の王国に似ていると認識していた。しかし、アマーが連邦よりも大きな勢力を持ち、文化的にも同等であるという事実は彼らを困惑させた。長い間、ガレンテ民族は自分たちの連邦を、ポスト人種主義・ポスト国家主義の原則に基づいた人類文明を星間に広めるための唯一の必然的存在だと考えていた。(先にFTLメディアが発明されたからこそ、ガレンテ民族が自分たちの文化を他の惑星に根付かせることができたということはさて置いて)
アマー帝国が星々を越えて存続する単一の惑星国家のように見えたことは、星間のガレンテ民族文化に影響を与えた。「古風な」帝国の発見を受けて、ガレンテ民族は自分たちの歴史、特にGaroun大陸に由来するものを振り返った。古い文化は復活し、現代に合わせてアップデートされた。Rouvenor王は当時のファッションや美的習慣の多くと同様に再び人気を博した。遥か昔のGarounの歴史を振り返るこれらの慣習は、今後もガレンテ民族の文化に残ることになった。ニクス級スパーキャリアのデザインは、そのような慣習による注目すべき産物である。これらの出来事はガレンテ民族の歴史上、セカンド・ルネッサンスとして知られている。
星々の時代へ
その後数十年にわたって連邦が拡大していくにつれ、ガレンテ・プライムの影響力は希薄になり、弱体化し始めた。様々な民族が共存するコスモポリタン的な世界となり、そのため連邦の代表はガレンテ民族以外の利益も考慮に入れ始めた。さらに、連邦の規模と人口が増加するにつれ、ガレンテのホームワールドの政治的な代表的地位は下がり始めた。ガレンテ民族は、連邦初期の時代のように、単一の存在とはもはや考えられなくなっていたのである。
多くの惑星がガレンティアの人口規模に匹敵するようになったため、結果的に重要な政治的役割を担うようになったのである。またインタキ人が政府における勢力を伸ばし、利益配分のバランスがLuminaireから大きく損なわれることとなった。共和国に定住することを選ばなかった反乱後のミンマター人の大量移住はこの流れを加速させ、ガレンテ族が部族文化に触れたことで、セカンド・ルネッサンスの新古典主義の影響がさらに強調された。今日、ガレンテ民族の利益は連邦の広い範囲に分布しているだけでなく、彼らが共に暮らす他の多くの種族の希望や願望も含むものとなっているのだ。
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EVE Universe – Lore – History of the ethnic Gallente
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