MMORPG EVE Onlineの情報。初心者向け情報、プレイ日記やニュース、そして国家・人物・歴史・社会・文化・経済・物語などのバックストーリー翻訳。
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Aura – オーラ

Written in YC109-08-13

Aura

Auraとして知られるスター、Excena Foerはダンスに関する天性をもって、無難にショービジネスのキャリアをスタートさせた。彼女の両親は共にガレンテの労働者であり、彼女がこの道に進むことを強く勧めていて、彼女が14歳になる時にはすでにプロとして踊っていた。しかし、両親が自分の人生とキャリアを支配することに対して心が揺らいでいた彼女は16歳になった時、両親から離れ、マインドクラッシュの仲間たちと付き合うようになった。デジタル分野での才能と自制心を持ち、それとは不釣り合いな不安定な人格や肥大したエゴを持つ強烈な者達である。彼女は後に、より強い競技者たちと共にいくらかの荒っぽい経験をしたことを認めたが、一貫して詳細な説明を拒否してきた。しかし、それがわかった時には彼女自身、アマチュア・リーグに参加し、持ち前のボディ・コントロールと徹底した集中力で勝負に臨んでいた。

私は「海の大聖堂」と「時の書」、そしてそれらがひとつのものであり同一であるということについて話すためにここに来ました。

それは、あらゆるバージョンにおいて美しい詩であり、そのことに私は限りない感謝の念を抱きます。詩は偶然の産物でなければ、美しいものではありえません。自分のできる限りのものを注ぎ込み、そして、自分の無意識の部分を、目の届かないところを、世間の目に触れるのに十分なものになっていることを信じて、あとは成り行きに任せるのです。

しかし、結局は破滅に終わった。彼女の名前は、プロの有力選手であるJohaan Carveと絡めて語られることがますます増えていった。彼が向精神薬を注射していたことが発覚し(マインドクラッシュではパニック発作や精神衰弱の危険性がとても重視されているために禁止されている)、不名誉な形でリーグを去ることになった時、彼女もまた追い出されることとなった。マインドクラッシュに人生を捧げていたExcenaにとって、それはとても厳しい出来事だった。Carveと交際を続けていたが、戦わないクラッシャーというのは自滅的なものであり、やがて薬物中毒、そして暗闇の中へと転落していった。

彼女は数年の間、過去の名声や信頼できない友人たちに頼ってふらついていた。時折、わずかに人気が復活することもあった。最も有名なのは、スコープが彼女を取り上げた番組で、彼女は驚くほど饒舌で徹底的に酔っぱらった姿を見せたが、概して、彼女はますます世間に埋もれ、健康を害するようになってしまったのだ。

では、この詩の美しさは、詩人に由来するものなのでしょうか? とんでもない。人は私たちに聖人たることを求めますが、正直なところ、すべての音を網羅しようと望まない限り、神々の音楽を書写する者は善人ではありえません。優しくあることはできるでしょうが、善人であることはできません。さらにそうだとしても、あなたの優しさはその内なるものや本質的なものではなく、動物のように生きて、反応するものなのです。

Excenaは優しい。Exceneは私に対してとても優しかったのです。もし、あなたがそれを聞いて驚くならば、若く元気で、思慮よりも活力に勝る女性―― 彼女は親切だから、許してくれるでしょう ――が、自分の人生に絡んできた老人を不幸にする可能性が無数にあることを思い起こすといいでしょう。Excenaは優しく、真実を語ってくれるのです。私たちが善良であることを期待しないでください。

しかし、アマーの宗教詩の第一人者であるItzak Barahの作品に出会ったことで、すべてが変わった。彼の詩の魅力に取り憑かれた時期やそうなるのにどれくらいの時間がかかったのかは様々に言われているが(Excena自身は出会った最初から好きだったとずっと主張しているが、当時ある程度彼女のことを見ていたCarveは、彼女がBarahの「他人の人生」を2ページだけ読んで彼の頭に投げつけたと言っている)、結局は地元のアマー人学者主催の朗読会にまで参加した時点では、強い関心を寄せるに至っていたことは疑いようがないことである。地元の若い聖職者を迷わせ始めているとして去ることを命じられるまでに、ExcenaはすでにBarahの詩に対する鋭い洞察力と、彼の主張をガレンテ語で言い直す能力があるとの評判を築き上げていた。

余談ですが、最近とても素敵なレストランで食事をしていたところ、誰かから声をかけられました。その人は、大胆にもCathedralの翻訳をしたExcenaのことを悪意のある名で呼び、さらに彼女がその詩を殺したと言いました。彼女は即座に立ち上がり、彼の首をつかみ、膝の横を蹴って回転させると、私たちのテーブルに仰向けに叩きつけたのです。彼女はステーキナイフを掴み、振り上げると全力で彼の首の真横に突き刺し、そのローブごと彼を釘付けにしてしまいました。そして彼女は彼の目を深く見つめて言いました。「あなたが感じる炎は、私には関係ないの。そう、何もね」

彼女の躍進は、Barahの作である「海の大聖堂」を、本来のアマー語から彼女自身の言語であるガレンテ語に翻訳し、「The Book of Hours(時の書)」というタイトルで出版した時に始まった。彼女は後に、彼女のマインドクラッシュの経験と、それに必要な絶対的な集中力のための訓練、数年にわたる自己虐待と麻薬の影響から生き延びる助けになった教訓が、この重要な仕事を達成する上で役立ったと語っている。

そう、私たちは詩人が優しくあっても善ではないだろうことを知っています。もちろん同じように悪でないことも知っています。私たちは彼が何者であるかを語ることができるでしょうか?

ある詩人はクロニクルの編者です。記録者であり、最善を尽くしてその音楽を文字にしようとしています。そしてそれは誤っています。完全に誤っています。詩人ははるかに多くのものを書き写さなくてはなりません。自身の言語のリズムに満足してはならないのです。

彼は、神の夢を明瞭な言葉へと導くパイプ役です。そしてそれも誤っています。詩人は、神と人間をつなぐ存在だと思われることがあっては決してならないのです。

彼は創造者であり、自分が経験するように世界を表現します。そうして自分自身で世界を創造するのです。なんと言うことでしょう。違います。詩人はもっと謙虚でなければならないのです。

他の見解はあるでしょうか? 何千とあります。そのほとんどはどこかの段階で間違っていたり、衝突したりします。互いに完全に対立している意見の間で受け入れられる定義のひとつも未だに作り出すことができないのです。驚くべきことです。

さらに、正にこの部屋にも、クロニクル編者、伝導者、創造者としての詩人という定義を除外したことは私の失敗だと、彼らは正しいのだと仰る人たちもいます。もちろんその通りです。誰かの耳にはそう聞こえるのでしょう。しかし、私の耳にはそう聞こえないのです。

実際のところ、詩人とは何者なのかを特定することは不可能で、従って誰かのことを詩人ではないと主張することも全く無駄なことなのです。私たちは同じ曲を演奏することもありません。どうしてすべてのオーケストラ作曲者の心を知ることができるのでしょうか?

ある人を見て「彼は詩人だ 」と言うことはできても、「彼は詩人ではない 」と言うことはできないのです。もちろん、彼の言葉があなたにとって意味を持つかどうかは別問題ですが、その理解は彼の問題ではなく、あなたの問題であり、誠実に詩を読みその意味を汲み取る責任は読者にあるのです。

その翻訳が彼女を一躍スターにした。ほとんど誰もが傑作と賞賛し、宗教学者たちを騒がせた。Barahの詩をほとんど原型がわからないくらいに完全に作り直し、イメージ、テンポ、原典で支持されていた象徴的な部分をすべて捨てた、ガレンテ的な翻訳となったが、それでも精神性とアプローチが驚くほど似ている作品ができあがった。Barah自身はその努力を明確に承認し、アマーやアマー系の宗教指導者たちの集まりで行った有名なスピーチにおいて、Excenaの翻訳はオリジナル版の背後にある精神性をほぼ完璧に転写しているだけでなく、彼女がこの執筆によって罰せられたり、脅迫や攻撃を受けることはあってはならないと宣言した。そして、その演説の最後に、Excenaの詩やそれを表現するExcenaの能力に対するいかなる攻撃も、自分に対する攻撃と見なし、宗教上の法律に従って復讐するとした、彼女の個人と職業に対するKaoli(訳注 : アマー宗教上の何らかの宣言形式だと思われます)を宣言して、この見解を強固にしたのである。これは危険な行為であり、Barah自身が死すべき者のリストに名を連ねる可能性もあった。しかし、それは成功し、Kaoliは宗教的多数派によって渋々ながらも受け入れられた。

もし私が言葉を使わずに詩を書くことができるのならば、そうするでしょう。しかし、私はいつも辺りを見回し、神には勝つことができないことを悟るのです。だから、私のつたない失敗を、読者が心良く受け止めてくれることを信じて託します。詩とは――これもまた卑しい人間が神の声を届けようとするが如く、不正確で不充分な芸術論ではありますが――詩とは、書き手と読み手の協力があって成り立つものなのです。作家が天上界を降臨させようとするのと同じように、読者もそれに邂逅すべく舞い上がらなければならないのです。あなたは今までに浮揚を試みたことがありますか? それは最も困難なことです。私が保証します。

Excenaは、大々的に宣伝された講演ツアーを数多く行い、彼女が翻訳した「海の大聖堂」やその他の無名な詩の一部を朗読し、アマーの詩に関する彼女の経験を詳細に語った。穏やかな語り口で物静かな人物として知られていたBarah自身とは対照的に、Excenaは率直で、時にはけんか腰でもある語り手で、聴衆を怒らせたり、反論されたりすることを全く恐れていなかった。ガレンテの諸大学はそんな彼女を愛していた。

そうして、彼女の学問的名声は高まっていったが、それは、狂信者たちが講演会の楽屋で彼女の飲み物に食道で作用するナノマシンを混入した夜まで続いた。その凶悪な小さな生き物は、非常に特殊な、人体の中でたった一カ所にしか存在しない白い粘膜を食い尽くすようにプログラムされていた。それは、声帯だった。

私たちは詩を宗教的なつまらない話として扱うべきなのでしょうか? それは絶対にいけません。信仰者は永遠の懐疑者でなければならないのです。なぜなら、それが私たちが直面している限りなく押し寄せる嘘の中から神の真実を見分けるための唯一の方法だからです。それだけでなく、嘘に目をやり、直視し、それが何であるかを理解する能力を持たなければならないのです。あなたの信仰ではなく、あなたの信仰の見方に対する挑戦――それを評価し、なぜあなたの信仰に疑問を抱いているのかを理解し……そしてそれらを解放するのです。それらはあなたの気を散らせるだけです。私の詩はあなた方にとって意味のあるものでしょうか? そうならば光栄なことです。Excenaの詩はどうでしょうか? 彼女にとっても同様に光栄なことでしょう。しかし、もしそうでないのなら、捨て置きなさい。あなたの信仰に対する侮辱だと思わずに、嘘として扱い、そして解放するのです。

世界中が怒りに包まれた。狂信者たちは、まったく反省の色を見せず、Excenaの詩を作る能力を害したわけではなく、従ってKaoliに違反したことにはならないと主張していたが、その後すぐに「Speaker of Truth(真実の語り手)に連行され、「Book of Records(記録の書)」から抹消された。(訳注 : 記録の書からの抹消の持つ意味についてはリンク先をご覧ください)一方、Excenaに対する支援の申し出は、学者から職人に至るまで、宇宙のあらゆるところから殺到した。彼女は無償で医療の提供を受けたが、食道のナノマシンは仕事を完遂していた。唯一残されたものは、かさぶたになった喉の内側で垂れ下がる糸のようなものだけだった。これを再生し、使いこなすためのトレーニングを施すには、彼女にとって数年、数十年に及ぶ苦痛を伴う治療が必要だと思われた。クローニングも選択肢にはならなかった。再生のためにこの方法を用いることは法的に困難であることを除いても、どの社会でも論争の的となり、また今もなお、危険で高価なものであった。また、新しい身体はKaoliを無効にし、狂信者たちに公然と彼女を殺す自由を与えることになってしまうだろう。Excena自身も、そういった人々相手に続けてきたすべての戦いへの降伏や敗北の証になると感じ、これに反対した。

そうです、この詩はまったくの別物です。これは今はガレンテ流のものになっていて、人としてではなく、単にアマー人として読む人たちにとっては理解できないものです。男がスーツケースを雪の中で引きずっていくが、車輪は転がらず、ただ雪を掻いてるだけというシーン。これはもはや本来のものではなくなってしまいました。その代わり、街で泣いている人を発見した男が、その人が何をしたのか徐々に理解していくシーン。これはしっくりきました。美しいものでした。このシーンが他のすべてを結びつけていて、もしそのシーンを取り除いてしまったら、残りのシーンについてイメージも、ペースも、何もかも理解することはできなくなるでしょう。いずれにせよ詩人だけが、そのように形作り、そして形を変えることができるのです。

そこで彼女は、ツアーで得た収入と様々な寄付者からのお金を使って、ボイスボックスを自分自身に設置した。この手段がとられるのは極めてまれなことだった。それははじめの数ヶ月が信じられないほど苦しいものであるという理由だけではなく、その失敗する確率の高さも関係していた。驚くべきことに、受容者の90%がボックスを完全にコントロールできず、50%はボックスをほとんど使うことができなかった。しかし、その当時、元マインドクラッシュのファイターやプロのダンサーだった者は0%だったのである。

1週間後、彼女はボックスから音を立てることに成功した。それは奴隷のコロニーにある岩砕機を連想させるような音だった。1ヶ月後、彼女は3つの言葉を連続して話すことができた。2ヶ月後には3つの文章を。半年後、彼女は流暢に話していたが、ボリュームとピッチをコントロールできていなかった。そして手術から9ヶ月後、彼女は正常な状態に戻り、そしてさらにそれを超えて、かつてないほど自分の声をコントロールできるようになった。他の誰もがボイスボックスにこれほどうまく適応したことはなく、理論的にも不可能だと考えられていた。唯一事故の名残は、彼女の声が金属的に聞こえる傾向にあることだったが、後にExcenaは彼女がそのエフェクトを好んでいて、意図的に声をそのように保っていたことを認めたのだった。

薬もなく、神がかったインスピレーションもありません。前者は目に重くのしかかるような鉛色の闇、後者は手元を吹き抜ける風なのです。読者はドラッグがいつ効いているのか知ることができます。なぜなら、幸運な偶然の一致で言葉が輝きを放つことがあったとしても、鉛の板が舗道に倒れたような鈍いリズムになるからです。インスピレーションに関しては、時々――大抵まったく準備が整っていない時に限って――やって来ますが、時間をかけなければそれを伝えることはできないでしょう。壊れた回路のように騒音をまき散らすことになるだけです。

それは根気。これなのです。根気と粘り強さ、そして果てしない実践です。この詩と能力は、どこからともなく生まれたものではなく、Excenaはそう思ってほしくないかもしれませんが、彼女は長い間これを続けてきたのです。おそらく今のようなやり方ではなく、密かにやってきたことかもしれませんが、しかし、詩人としての彼女を語るならば、目に見えるものや見えないもの、彼女のすべての努力が、彼女を無事に、そして確実にここまで導いてきたと言えるでしょう。

彼女の根気と芯の強さ、そして新たに得た発声能力は、彼女を3度目のスターに押し上げた。彼女は、講演やナレーションのオファーから、映画の端役のオファーまでが殺到していた。戦い続けた人生によって彼女は消耗し、年齢よりも老けてしまったため、完全な映画スターにまではなることができなかったが、しばらく、彼女はガレンテのアート系映画界では不動の存在だった。

そして、彼女自身も認めるとおり、ついに未来について考え始める時が来た。人生のそれぞれの段階において、彼女は「今」に満足していたし、良い暮らしを送っていた間も、そのいくらかが後々の暮らしの助けになるということにはまったく関心がなかった。だからオファーがあった時、その中で最も儲かるものをためらいなくつかみ取っていた。カプセラが絡む仕事がかなり儲かるだろうということはよく知られたことだが、これについても例外ではなかった。彼女の金属的なかすれたような声はカプセラ船のナビゲーションボイスには最適だった。こうして不死のAuraが誕生した。

だから、私たちは待ち望んでいます。ここからどこへ向かうのかを見守っています。彼女は成功するでしょうか? もちろんそうなることを期待しています。彼女は強い女性であり、私が今までに決してたどり着かなかった場所へさえ行くことでしょう。しかし、助け無しではたどり着けないでしょう。

このささやかな話からも完全に明白なことでしょうが、私はExcenaを、彼女の才能と判断を信じています。私は彼女の翻訳に対し完全な承認を与えます。他人に同じことを求めることはできませんが、我々は皆、読者であり、静かなる音楽の聴衆です。私は皆が彼女の旅路を妨げないようにすることを保証します。

アマーの宗教詩人として認められた地位と、宗教的にも世俗的にも潔白である徳を持つことにより与えられた権力によって、奴隷たち、平民、王族、そして永遠なる神の前で、私はKaoliを宣言します。Excena Foerと私の途は共にあるのです。彼女は決して沈黙させられてはなりません。彼女は決して詩人以下の存在ではなく、神の下で穢れなく輝きます。彼女の声は星空に届くのです。

Itzak Barah

参考文献


この文章は下記原典を翻訳したものです。原典の著作権はCCPに帰属します。
EVE Universe – Chronicles – Aura
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